声をきかせて(5)
翌日、香はいつものように目を覚ました。頭の中で今日の予定を反芻する。
伝言板を見に行って,その足で声をかけられた男の人と会う。リョウは何かあったらって警戒していたけど、そもそもランチにって誘う男の人に、心配するような下心はないように思う。普段男女扱いをするくせに、変なところにこだわる。
カーテンを開けながら朝日を体いっぱいに浴びる。両腕を思い切り伸ばしたところで香は違和感に気付いた。
声が出ない。
風邪でもなく、特に咽喉が痛むわけでもなく。
まったくの心当たりがないことに驚きを隠せない。
何度も声を出そうとしてみるけれど、わずかに息が漏れるだけ。
そもそも、意識をして声を出すなんてことをしたことがなかったから、今更声の出し方と言ってもなかなか思うようにいかない。
香は急いでまだ寝ている相棒のもとへ行く。
大いびきをかいて眠る男を叩き起こすと、必死のジェスチャーをした。
寝ぼけ眼で適当に話を聞き流す男を無理やりリビングに連れてくると、香は説明を試みた。
***
目の前の紙を睨む。
(声が出ない)
整った字で書かれた紙と、香の顔を交互に見比べる。
「体調は悪くない」
「咽喉も痛くない」
「今朝起きたら急に声が出なくなっていた」
「つまり、心当たりがまったくない・・?」
香は俺の質問にすべて首を縦に振る。
見たところ、特に外傷があるわけでもなく、体調も悪いわけでもなく、いたって普通の香だ。どうしたもんか・・。
「とりあえず、教授んとこ行くか」
原因が分からないのが一番やっかいだ。俺がそう言うと、香はあわてて何かを書き始めた。
(伝言板!)
「おまえなぁ、それどころじゃねぇだろ?依頼あったって、この状態じゃ無理だろーが」
一瞬すまなそうに眉を下げると、また何か書き始めた。
(今日会う約束してるの)
何のことを言っているのか一瞬分からなかったが、すぐ例のナンパ男のことだと気付く。
「だから、それどころじゃねぇって言ってるだろ」
わずかな苛立ちを感じながら言う。
(分かってる。ただ、連絡しないで行かないってのは・・)
ドタキャンをするには心が痛むってか。
「番号とか聞いてねぇの?」
カマをかける。
(聞いてるけど、電話は無理でしょ)
「メールは?」
(アドレス知らない)
電話番号を交換していることにまたもや苛立ったが、かえって都合がいい。
「俺がかけてやるよ。番号は?」
俺がそう言うとギョッとした顔で慌てて両手を振った。「かけなくていい」という意味らしい。
「なんでだよ。その方が早ぇだろ」
(いい!っていうかやめて!)
「なんで」
(どこの世界に妹のデートを断る兄がいるの!11時に約束してるから。直接断る。教授のとこへはその後にお願い)
「妹」、「デート」という単語に反応が一瞬遅れる。
そもそも、デートだったのか。男女が2人で出かけるなら、まぁ、デートだよな。
そしてお前は俺の妹だったのか。
昨日の夜がフラッシュバックする。後ろから抱きしめながら、苦し紛れに「妹」と言ったのは俺の方だった。
「・・・わかったよ」
しぶしぶ了解をすると、香はほっとしたように唇を動かした。
「ありがとう」と言っていた。
***
ナンパ男との待ち合わせ場所を離れたところから見る。
マスクをしている香は体調が悪いようにも見えなくない。
つらつらと事情を紙に書いている香をソファから眺めていた時間を思い出す。
(よくもまぁ、かいがいしく・・)
呆れ半分、苛立ち半分で放っておいた。口を開けば何を言うか分かったもんじゃない。
男はよく見ると、長身の爽やか系だった。いわゆる、世間一般でのイケメンに分類される。
ナンパ男の定義を改めざるを得ないと思うほどの、下心が先走らない、性格のよさそうなヤツだった。案外本気のナンパだったのかもしれない、と思う。
香がすまなそうに何度も頭を下げているのが目に入る。
もし、香の声が何ともなかったら、あの2人は一緒に出掛けていた。
数時間で打ち解けて、数日後には付き合うことになっていたかもしれない。
視線をはずして煙草を吸う。
クーパーの中は静かだった。
いつも1人でもしゃべる香がこの状態では当たり前だが。
お互いの息遣いが聞こえてきそうなほどの沈黙にしびれを切らしたのは俺の方だった。
「ナンパ男、何だって?」
(お大事にって)
「ふーん」
もともと読唇術ができる俺。それに気づいた香が大げさなくらいゆっくりと口を動かす。横目で見ながら俺は解読する。
「怒ってなかったか」
(うん。また今度って約束したから)
「あっそ」
「また今度」があるのかと思わずむっとする。男の方も単に口約束で済ます気はないらしい。
香が俺の服を引っ張る。
(教授へ連絡は?)
「入れておいた。とりあえず、いろいろ検査することになると思うって」
(・・うん)
それ以降話をやめた香は、頬杖をついて窓の外を眺めている。
原因が分からないことに一番不安を感じているのは他でもない、香だ。
教授の家に着くとさっそく検査が始まったが、
結果、香の体に異常は見られなかった。
喜ぶべきことなんだろうが、不安を隠せない。
「体も咽喉も声帯も、いたって健康じゃ。扁桃腺の腫れも見られん」
香がホッと息を吐いた気配がする。それと同時に俺を見上げる。
香の視線を受けて、俺は口を開いた。
「原因は分からないんですか?」
「今のところ、としか言えんな」
教授はひげをなでながらやや渋い表情をする。そばにいるかずえちゃんが心配そうに眉を寄せた。
「ここ数日、何か変わったことは?」
尋ねられた香は首を横に振る。
次に視線を向けられた俺も「特には」としか答えられない。
「ほほう、リョウに恋人ができたこと以外、特になしか」
ブッと思わず息が漏れる。
このタヌキじじぃ急に何を。
「ほっほっほっ」と面白そうに笑う顔はしかし作られたもの。視線の先には香。
「なぁ、香くん。リョウに恋人が出来て少しはこやつの女癖の悪さは治ったんじゃろうかのぅ?」
急に話を振られた香はすぐに頬を緩めると、首を縦に振った。つまり、イエスということだ。
「ほほう。こやつの女癖は死ぬまで治らんと思っておったが・・・。よほどの美女に違いない」
教授の言葉に香はにっこり微笑むとまた首を縦に振った。そして俺を見上げる。それはまるで「ね?」と同意を求めているようだ。
教授は香の反応を見ている。
長い付き合いからこそ分かる表情。
“いつもの”香であれば反応を見せるであろう質問をわざとしている。
「では香くんがハンマーを落とす回数はめっきり減ったんじゃないか?」
嬉しそうに首を縦に振る。確かにここ数日、ハンマーを食らっていない。
「それは何よりだ。新宿も家計も平和だね」
気の利いた冗談に香の肩が揺れる。
「リョウは頻繁にデートへ行くのかのぅ?」
「教授!」
香の反応を見るといっても口を挟まずにはいられず声を出す。できれば触れられたくない話題であることには変わりない。
「いいじゃろう、少しくらい。のう?」
香に同意を求める。
「こやつとは長い付き合いじゃが、如何せん、秘密主義だからのぅ。わしにはさっぱりじゃ」
香は眉を少し下げ、笑っている。教授に共感しているようにも見えなくない。「私もです」って。
「して、リョウはその美女と出かけるとき、めかし込んで行くのかい?」
香が首を縦に振る。
「ほっほっほっ!この朴念仁が!?」
香の肩が揺れる。
「それくらい惚れ込んでいるとなると、依頼人が泊りに来ても目もくれんじゃろう?」
香が縦に首を振る。実際、その間に依頼が来たことはなかったが、そうであろうという香の予想だろう。
そんなふうに見えていたのか。
「そうか。じゃあ余計な心配事は減って夜はぐっすりじゃのぅ?」
すると、これまですんなり反応を示していた一瞬香が止まる。
「・・・」
何だ?この間は。
教授と視線を交わす。
「香くん?」
教授の問いかけに気付いた香は、わずかに微笑んでうなずいた。
新年の挨拶を吹っ飛ばして更新とかって・・・
今年もよろしくお願いします。